[mixi] 少し長い話をしよう。 (その2)

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この記事は 2007年5月5日 に書かれたものです

働き始めてから夜間の大学に入った。
1年目、夏休み目前のある日、校門を出ようとしたその時突然の電話がかかってきた。中学の友人からだった。授業が終わった生徒達が次々と校門から出て行く。そんな場所も忘れ、驚き半分、懐かしさ半分で矢継ぎ早に会話をしようと思ったその時、要件は前触れ無く突然つげられた。父親が他界したらしい。

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子供にはわからないと思ったんだろうな。面と向かって言われたよ。
「あんな親から生まれた物はろくなものにはならない」
だから僕は欠点のない人間にならなくてはいけなかった、絶対に。死んでもろくでなしにはならない。自分のプライドにかけても。育ててくれた両親のためにも。そうやって創り上げた今の自分に満足していたよ。宮沢に会うまでは。
もしかして、今まで「自分」だと信じてたものは努力で創り上げただけの「ニセモノ」だったんじゃなかったのか…僕の中にはもうひとり「ホンモノ」がいるんじゃないのか…。そう考えてまずいことになったと思った。そんなこと気づいちゃいけなかった。
最低の人間だったらどうする!?もしあの親の血を引いていたら。僕は自分の血が怖い。ろくでなしになるわけにはいかない。義父のためにも義母のためにも

実の父親に会ったのは高三の一回だけだ。
日曜日の午前だったと思う。家の電話が鳴った。たまたま私が出た。電話をかけてきたのは声を聞いたことのない男性。私に変わって欲しいと、自分であることを告げると会いたいと言う。ピンと来る物があったのだろう、何も聞かず午後に家の近くで待ち合わせをした。

一台のクルマが国道から待ち合わせ場所にやってきた。運転席に座る50歳前くらいの男性がドアの窓を開け、わたしに話しかけてきた。アナタは誰なのかと何度も尋ねると、躊躇するように「何も聞いていないのか?私はキミの父親だ」と言われた。続けるように、話がしたいからご飯を食べないかと誘われた。

不思議とココロは落ち着いていた。この展開はある程度予想していたし、いつか来るのではないかと小さい頃から考えていた。
「なぜ今頃になって」
「何度も会おうと思ったが、会わせてもらえなかったんだ」
それが裁判上の判決なのか、家族が拒んでいるかは分からなかったが、ウソではないように聞こえた。もう少し話を聞いてみたいという気持ちが出てきた。だが、そこには踏み込んではいけないような、一度足を入れれば今の生活が失われるような感覚に陥った。彼がもう一度ご飯に誘う。その時、顔をこわばらせた祖母がいつの間にか家から飛んできたのか間に割り込んでいた。電話の内容を聞かれていたのだろうか。混乱する目の前で
「この男が家族を子供をどぶ川に捨てた父親よ」
ここまで憎しみを露わにした祖母を見るのは初めてだったのかもしれない。気がつくと私は我が家に向かって自転車をこいでいた。当時18歳だった思う。これが最後になった。私は自分のルーツを本人から聞く機会を永久に失った。

その年のお盆、実家に返ると当時の裁判資料が出てきた。
父と母の離婚を巡る調停から種々の裁判終了まで3年程度の時間を要したらしい。我が家が訴えられる形になり、原告は粗食などの貧しい食事を与えられ、精神的な苦痛をうけたことを主張し金銭(確か100万)と親権を要求してきた。結果から言うと原告敗訴で終了。原告側の要求はすべて棄却され、我が家へ月1万程度ではあるが養育費を払えと言う命令を受ける。

原告は弁護士付きで戦いを挑んできたが、我が家に弁護費用を出す余裕などもちろんない。当時まだ50代だった祖母が無料の相談所を駆けめぐり、母が私を知人宅にあずけ(この記憶は不思議と残っている。聞かされてパズルのピースがうまった感があった)裁判を行っていたのだという。

事実はどうなのか分からないが、聞いた話を鵜呑みにすれば、わたしの父親はひどい生活をしていたらしい。仕事をほったらかし、酒とパチンコにおぼれ、私がまだお腹の中にいる間も母など家族に酔った勢いも手伝い手を上げていたそうだ。それを聞いた相談員が「これで訴訟を起こすのは人間のすることではない」とまで言わせしめたそうだ。

我が家の不幸はこれまでに何度となくあったようだ。祖母の父親は太平洋戦争中に中国で亡くなられたらしい。出兵する際の話と遺骨として家に帰ってきたときのことをお盆が近くなるとよく聞かされた。ここにはかけない不遇の死を遂げられたご先祖様もいらっしゃったということも聞いた。

小さい頃から何度言われただろうか。酒はほどほどに、ろくでなしになるなと。口を酸っぱくして何度も聞かされたのを覚えている。小さい分別もまったくつかない子供になんてことを教えるのだと思った物だが、幸いだったのは、非常に温かく育てられたということだろう。家族にもだが、少し不思議なのは集落の人達にも好意的に接してもらっていたように思う。もう一つは良くも悪くも社会に対して早いうちから耐性が出てきたことだ。

現実は厳しく、自分を支えるものは自分しかなく、これまで育ててくれば家族を養い、いつか来るだろうその日、弔うことをしなければならない。それがいつかは分からないが、自分が生きているうちに間違いなく来る。

小学生のころはあまり実感がもてなかった。
しかし中学に入ったぐらいからだろうか、やがて高校を出てそれから先のことを考えるようになると、とたんに怖くなった。そんなときに好きな物に出会ったのである。

学校生活でもそれは少しずつ現れるようになる。学級委員や何らかの委員には積極的に立候補したのは父親のことを聞かされていたというのが根底にある気がする。勉強はそんなに好きではなかったが真ん中から上に行くくらいには常にいたと思う。

この頃からすでによく笑っていたのだと思う。達観というよりはマイナス方向に行くことを制限されていた反動のような気もするのだが、バカなことを言えばクラスメイトも笑ってくれる。それを家で話せば、不思議と家族も笑ってくれる。楽とは言えず、つらい過去の延長線上を生きる家族を自分が少しでも笑わせることができる。今となってはそうではなかっただろうかという予測、考察にすぎないが、このような感情が根底にあるのではないだろうか。

それは高校に入ってからも続く。
当時の自分としては予想以上に回路や電気関連の授業がほとんどで辟易としていた反面、それはそれで楽しんでいた。普通高校に行って腐っていたかもしれないことを考えれば十分マシだっただろう。

色々な縁があり副会長に立候補、その後学年があがり会長にも立候補した。部活はたまたまメンバーが良かったのか、全国大会まで後一歩のところまで行く。今思っても非常に充実した日々が続いていたと思う。

だが、それは卒業と同時に破られる。

つづく

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